熊野古道

熊野古道は、熊野三山熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。熊野参詣道ともよばれる。紀伊半島に位置し、道は三重県奈良県和歌山県大阪府に跨る。

熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。熊野三山は、天皇から貴族、庶民に至るまであらゆる階層の人々の信仰を集め、皇室で参拝したのは、908年(延喜7年)の宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる[1][2]。熊野御幸とは、上皇の熊野詣のことで、1281年(弘安4年)の亀山上皇の熊野御幸まで、その期間は374年間、94回行われた。

熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野御幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野御幸を行った。これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野御幸を行っている。源氏や平氏にも信仰され、平安・鎌倉時代の僧侶であった一遍や文覚も参詣した。

また、主に12世紀から13世紀にかけて九十九王子が設けられた。これは、熊野古道(特に紀伊路、中辺路)の大阪の基点であった淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から熊野三山までに、100近くの熊野権現を祭祀した末社である。参詣者は、九十九王子で休憩しながら熊野三山まで歩いた。現存するものは少ない。

室町時代になると、貴族のほかに武士や庶民の間でも熊野詣が盛んになり、「蟻の熊野詣」とまでいわれるほど、凄まじいほどの参拝者の大群であったといい[1]、熊野三山の繁栄も頂点に達し、熊野参詣道も広域道路として整備された[2]。

江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようだ。

1906年明治39年)末に布告された「神社合祀令」により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。

熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。

現在は、和歌山県観光振興課が中心となり、ルートが整備されスタンプラリーなどもできるように観光化も進んでいる。


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