哲学における意志

ショーペンハウアーはその主著「意志と表象としての世界」に於いて、世界の全活動の原動力は、我々の内にも現象している意志であるとした。

しかし彼による意志の定義は「行為を促す自発的な思考」のことではない。というのも、思考と呼ばれるものはつまりは抽象的認識であって、 脳に与えられた単なるデータ(客観)に過ぎず、それ自体が自発的行為を生み出すことはありえない。各自の生まれつきの性格に基づき、知覚による直接的認識と、概念による抽象的認識により与えられた動機を比較衡量し、最終的に行為は必然的に発生する。ゆえに、我々が何らかの行為を行う限りにおいての自由意志は全くの幻想であり、これを完全に否定している。羽虫に光が与えられれば火の中であろうと飛び込まない自由意志は無く、石に物理的衝撃が与えられれば転がらない自由が無いのと同じように、人間の行為は必然的に発生するのである。

彼によると、意志は人間や動物だけでなく、植物、さらに岩や惑星などの無機物など全てのものにいわば内在している。しかしこれは、神のような普遍的存在者が偏在しているという意味ではない。というのも、人間の活動も、動機(つまり脳に現れた直接的認識=知覚と間接的認識=概念)に基づいて活動を発生させる「何か」は客観的には(つまり脳の認識の形式である根拠の原理に基づいて)説明することは不可能であり、重力や磁力そのものが何であるのかを説明することが不可能であるのと事情は変わらないからである。脳に現象として現れるのは、既に脳の認識形式を経た後の「意思が客観化されたもの」であり、意志自体(つまり物自体)ではない。

それゆえ、意志は人間の胃腸や生殖器にも、脳による認識作用とは関係無く、植物と同様、いわば「盲目的」に作用している。というのも、我々の意志が強烈な怒りや悲しみと言った動揺に晒された場合、例えば「腸が煮えくりかえる」と言われるように、その影響は内臓にも及ぶ。一方で、純粋に脳による認識作用を行う活動、例えば藝術鑑賞や学問などの活動によっては、感情の激変のように他の内臓に影響を及ぼすことは見られない。故に、脳すなわち認識作用は、胃腸や生殖器と同じく、意志に仕える機能を持った臓器の一つにすぎないとしている。

先に意志が物体に「内在している」と表現したのもいわば比喩的表現であって、意志は空間の中に存在していて直接に知覚できるもの、つまり客観として直接に我々に現れるのではない。なぜなら空間と時間は我々の脳の認識の形式であって、それは客観となり我々に把捉される前の「物自体」である意志には適用されず、意志が脳を媒介とした現象として顕れて初めて、我々の知覚によって認識されるからである。つまり、意志は我々の脳の機能により全ての物事が主観と客観に分離されるより前に、その適用を受けずにある「何か」である。時間も結局は脳に由来する認識機能であるから、意志は時間からも超越していると推測される。

以上の議論から、人間の認識作用によって幾分かでも世界の本質である意志の性質を把握できるのは、行為(つまり意志の現象)を行った後で、自らの行為についての反省、すなわち自らの行為を抽象的に再認識するというプロセスを経なければならない。これにより意志が自らを否定し、意志が意志としての活動を停止することが起きうるという。それが仏教で言う涅槃や、聖者と呼ばれる人々の内面に起きた、人類に起きうる最も高貴な精神状態である、と説明されている。彼の哲学では、人間の自由はこの点にのみ認められている。なぜなら意志が意志としての活動をする限り、行為は動機に基づいて必然的に発生し、概念による抽象的動機に基づく行為が「自由意志」であると表面上思われるのは、じつは錯覚に過ぎないからである。

さらに補足すると、意志が「目標を定めてその達成のために行為を促す」という説明は、意志を前提とした説明の仕方であって、意志そのものの説明には全くなっていない。何故なら「目標」や「達成」というのは、つまりは意志(欲求)に対応する相対的概念であり、「北とは何か」を説明するのに「南の反対である」と説明するのと同じである。「目標」とは「意志(欲求)の対象」であり、「達成」とは「もはやそれが意志(欲求)の対象では無くなった」ということを言い換えたに過ぎないからである。


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